第三話
始発の街
かわまちみなみ駅 6時02分発

第一幕
帰る場所
── 川瀬誠司、五十一歳 ──
家族と暮らし始めて三週間が過ぎたが、川瀬誠司は未だ、自分の家の中で落ち着く場所を見つけられずにいた。
リビングのソファは妻・恵子の定位置だった。二十年以上、恵子一人で座り続けてきたソファは、誠司が並んで座ると微妙に窮屈に感じられた。
書斎にしようとした小部屋は、息子の翔太が帰省するときの部屋になっていた。翔太は大学で横浜にいて、月に一度帰ってくる。その「帰ってくる場所」を奪うわけにはいかない、と誠司は思った。では自分はどこにいればいいのか。
キッチンは恵子のテリトリーだった。二十年かけて築かれた配置と秩序がそこにはあって、誠司がうっかり鍋を違う棚にしまうと、恵子は何も言わずに移し直した。何も言わないことが、何かを言われるより気まずかった。
だから毎朝、誠司は未だ家族が眠っている六時前に家を出る。
かわまちみなみ駅のホームは、その時間、ほとんど人がいない。新しく整備されたばかりのベンチに座って、電車を待つ。この時間だけが、自分のものだった。
* * *
ある水曜日の朝、ベンチに先客がいた。
若い女性が、膝の上に小さな子どもを乗せて座っていた。子どもは三歳くらいか。女性の胸に頭をもたせかけて、うとうとしている。女性はスマートフォンをスクロールしながら、時折、子どもの背中を軽く叩いた。
誠司は少し離れたベンチを選んで座った。
女性の顔は疲れていた。でも子どもの頭を支える腕は、しっかりしていた。
翔太が三歳だった頃、誠司は名古屋にいた。最初の単身赴任だった。妻から電話で「翔太が初めて自転車に乗れた」と聞いたとき、誠司は駅のホームにいた。よかった、と言った。それ以外の言葉が出なかった。
電車が来た。女性が子どもをゆすり起こして、「ほら、電車だよ」と言った。子どもは目をこすりながら立ち上がり、電車のドアが開くと同時に、ぱっと表情が変わった。「でんしゃ!」と言った。
誠司は別のドアから乗った。座席につきながら、思った。あの子はいつかあの朝のことを覚えているだろうか。翔太は覚えていないだろう。誠司が名古屋にいた三年間のことを。記憶に残るほど、一緒にいなかったから。
電車が鉄橋を渡る。窓の外に、川の光が広がった。
* * *
翌朝、誠司はいつもより三十分遅く起きた。キッチンに入って、冷蔵庫を開けた。卵が四個あった。フライパンを出して、火にかけた。
恵子が寝室から出てきて、キッチンに誠司がいるのを見て、立ち止まった。
「……何?」
「卵焼き」
「なんで」
誠司は答えなかった。なんで、という問いに対する言葉を、未だ持っていなかった。
恵子はしばらく誠司の背中を見てから、冷蔵庫からジュースを取り出して、テーブルについた。
卵焼きは少し焦げた。でも恵子は「おいしかった」と言った。
それだけのことが、誠司には川の光より、ずっと眩しかった。
帰る場所というのはそこにあるものではなく、つくりだすものなのかもしれない。そう思いながら、誠司は未だ言葉にできていない何かを抱えて、今日も始発に乗る。
──────────────────────
第二幕
走り続ける理由
── 原田菜摘、三十四歳 ──
毎朝、ひなが泣く。
保育所の入り口で、両腕を伸ばして「ママいかないで」と泣く。その声は、菜摘の背中に刺さって、電車に乗っても三つ目の駅を過ぎても、六つ目の駅に着くころにようやく薄くなる。薄くなるだけで、消えることはない。
引き剥がす、という言葉を、菜摘は心の中でいつも使っていた。引き剥がして、走る。それが毎朝のことだった。
復職して四ヶ月が経つ。夫の健一は週三日しか帰宅しない。残りの四日は菜摘一人でひなを寝かしつけて、そのまま深夜まで仕事をする。
走ることに慣れすぎて、立ち止まり方を忘れていた。
* * *
ある木曜日の朝、ホームで隣に座った老人が、路線図を広げていた。
鉄道の路線図に、丸印やメモが書き込まれている。老人は機嫌よさそうにペンを走らせて、時々、路線図全体を眺めて満足そうにうなずいた。
菜摘は横目でそれを見ながら、思った。
あんなふうに電車に乗れる日が、来るんだろうか。目的地のある乗り方ではなく、乗ること自体を楽しむような、あんな顔ができる日が。
電車が来て、菜摘は座席についた。スマートフォンを開いた。メールが七件。Slackが十四件。
菜摘は画面を閉じた。今日だけは、次の駅までの六分間、何も見ないことにした。
窓の外が流れていく。住宅地、田んぼの跡、工事中の更地、新しい道路。この街は未だ途中だ。菜摘も未だ途中だ。途中であることが、少しだけ、息苦しくなくなった気がした。
* * *
その日の夕方、上司の林さんに呼ばれた。
「原田さん、もう少し余裕を持って仕事してほしいんだけど」
菜摘は「すみません」と言いかけて、止まった。
「余裕の作り方が、分からなくて」
林さんが少し目を細めた。「それ、正直に言ってくれてよかった」と言った。
帰り道、菜摘はいつもの列車ではなく、一本後に乗った。急いでいないのに急ぐことをやめる練習として。
かわまちみなみ駅で降りると、夫の健一がひなを連れて迎えに来ていた。ひなが「ママ!」と叫んで駆けてきた。菜摘はしゃがんで、両腕を広げた。
今朝、引き剥がした腕が、今はひなを受け止めている。その重さが、今日一日の中で一番、確かなものだった。
明日の朝、またひなは泣くだろう。菜摘はまた走るだろう。でも今夜は、少しだけ、立ち止まれる。
それだけのことが、走り続ける支えになるとは、思っていなかった。
──────────────────────
第三幕
妻に言えないこと
── 前島義雄、六十八歳 ──
かわまちみなみ駅は、折り返し始発機能を持つ駅だ。
それを知ったとき、前島義雄は手帳に大きな丸印をつけた。始発駅から乗れば、必ず座れる。この路線の全線踏破の旅において、これは重要な条件だった。
定年退職して三年。妻の由紀子に「好きなことしていいわよ」と送り出されてから、義雄は各地の路線を乗り歩いてきた。
今日の計画は、かわまちみなみから乗って終点まで行き、そこで評判のそばを食う。そして端から端まで乗り通す。
義雄はホームに着いて、ベンチに座った。隣のベンチに、疲れた顔のサラリーマンがいた。眠そうでもなく、ただそこにいた。義雄はその隣には座らなかった。旅の朝の静寂を、他人に分けたくなかった。
* * *
電車がホームに滑り込む。座れた。始発から乗ることへの小さな満足感がある。
向いの席に、若い女性が座った。子どもを膝に乗せていた。さっきホームで見かけた人だ。子どもが「でんしゃ、はやい?」と聞いた。女性が「そこそこ速いよ」と答えた。子どもが「そこそこってなに?」と聞いた。女性が少し笑った。
義雄も、つられて笑った。
旅はいつも最高で、蕎麦もうまくて、鉄道路線図はいつも義雄を興奮させた。でも今年の春から、その「最高」の裏側に、小さな棘が刺さったままになっている。
四月の健康診断の結果が、要精密検査となっていた。由紀子には未だ言っていない。精密検査の予約も、入れていない。旅から帰ったら入れよう、と思って、また旅の計画を立てた。
先送りにしている理由は。知りたくないのだ。検査を受けて、何かが見つかれば、この軽やかさが終わるかもしれない。
だから先送りにした。旅の朝の、手帳に路線図を広げるあの瞬間だけは、何も知らない自分でいたかった。
* * *
蕎麦はうまかった。沿線の景色もよかった。
夕方、帰宅した義雄に、由紀子が「どうだった?」と聞いた。
義雄は「最高だった」と言いかけて、止まった。由紀子が、少し首を傾けた。
「……春の検査のこと、未だ言ってなかったけど」
由紀子の顔が変わった。でも義雄を責めなかった。ただ、テーブルの向こうで、じっと夫の顔を見た。
義雄は手帳を開いて、精密検査の予約票を出した。未だ白紙だった。
「明日、電話して予約入れる」
由紀子がうなずいた。それだけだった。
この軽やかさが終わるかもしれない、と思っていた。でもその夜、義雄は思った。軽やかさというのは、何も知らないことではなく、知った上でそれでも出かけられることなのかもしれない、と。
次の旅の計画は、検査予約の電話をしてから立てようと、そう決めた。
──────────────────────
第四幕
6時02分発
── 三人の朝 ──
駅前広場の工事が終わって、最初の春が来た。
6時02分の始発を待つホームに、三人が並んでいる。互いの名前は知らない。
* * *
川瀬誠司は今日も早出だ。昨日の朝は、卵焼きの他に味噌汁も作った。恵子が「少し塩辛い」と言った。翔太が先週の帰省で「父さん、料理するんだ」と言った。誠司は「最近な」と答えた。翔太が「へえ」と言った。それだけの会話が、未だ温かい。
ホームに出ると、見慣れた若い母親が娘を連れて立っていた。今日は珍しく、娘が泣いていない。母親の手を握って、線路の向こうを見ている。
* * *
今朝、ひなは泣かなかった。ひなは母親の手を握って、「でんしゃくる?」と聞いた。「来るよ」と答えると、「はやくきて」と言った。
電車を待つひなの横顔を、菜摘はスマートフォンで撮った。今日の朝の証しとして。
ホームの端に、老人が手帳を持って立っていた。旅に出るのだろうか。菜摘には関係のないことだったが、なんとなく、その背筋の伸びた立ち方が好きだった。
* * *
前島義雄は今日も旅に出る。精密検査の予約は、昨日の朝に電話を入れた。来月の初旬に入れた。それまでの間にもう一本、どこかの路線を乗り通せる。
由紀子は今朝も「好きなことして」と言った。言葉は同じだったが、どこか違った重さがあった。義雄はそれを、ありがたいと思った。
ホームに出ると、若い父親らしい男と、母子連れが別々に立っていた。みんな同じ始発を待っている。
* * *
電車が来た。三人は別々のドアから乗った。
誠司は窓際の席に座って、目を閉じた。
菜摘はひなを膝に乗せて、さっき撮った写真を見た。
義雄は手帳に今日の日付を書いて、窓の外に目を向けた。
電車は動き出した。かわまちみなみ駅のホームが、後ろへ流れていく。
この駅は折り返し始発駅だから、どこかで何かが起きても、ここまでは必ず戻ってこられるのだ。誰かが計算して、設計して、この駅に作った機能が、三人を静かに支えている。
電車が鉄橋を渡る。川の光が、車内を一瞬だけ明るくする。
それぞれの朝が、同じ光の中を通り過ぎていった。
ここには必ず戻ってこられるのだ。
(了)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
よかったら、#コミュニティラジオ #フィクション #短編小説 #ラジオ取材 をつけてSNSで感想を聞かせてください。続けてゆく力になります。
あとがき
ラジオ番組の取材を通じて、この街には様々な活動をしている人々がいて、伝えるべき出来事があることを知りました。
そして、それらの人々にはそれぞれの思いがあり、それぞれのストーリーがあることに気づきました。そして「これは事実を放送するだけでなく、物語として残したい」と思いました。
私たちのラジオ番組では事実を伝えなければなりません。でも、番組から離れて、その背景を見つめ、想いを馳せて創造したフィクションなら── 人々が胸の奥に秘めている「思い」も描けるかもしれない。
街の声をもっと遠くに届けるために、その「思い」を書き続けようと思っています。
いはらコウ
※本書に収録された作品は、ローカルコミュニティラジオ番組の取材をヒントに創作したフィクションです。登場する人物・団体の名称等はすべて架空のものであり、実在する個人・団体とは一切関係ありません。


コメント