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ラジオストーリーズ1-2

ラジオストーリーズ
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第一幕
どこでも一緒か
── 着任、そしてすぐ後悔 ──
桐島悠がかわまちみなみの新工場に着いたのは、四月のよく晴れた朝だった。

工場の建物は未だ真新しく、外壁には「エンゼルベーカリー かわまちみなみ工場」という看板がぴかぴかに光っていた。周りを見渡すと、造成中の更地、ぽつぽつ建ち始めた新築住宅、遠くにクレーン。駅からの道は整備されてはいるが、未だコンビニひとつない。

悠はリュックを下ろして、一言つぶやいた。

「なんもない」

前にいた本社工場を出るとき、工場長の田中さんは「かわまちみなみはこれから発展する街だ、楽しみにしてろ」と肩を叩いた。その「楽しみにしてろ」がどういう意味なのか、今ひとつ掴めないまま、ここまで来た。発展する街というのは、つまり今は未だ発展していないということで、それは要するにこういうことだ。

「なんもない」

同じ感想を二回言ったが、二回とも正しかった。

工場の中に入ると、先着していた工場長補佐の佐久間さんが段ボールを運びながら「悠くん、ちょうどよかった、こっち手伝って」と言った。初日から荷物運び。以前の工場でも最初はそうだったな、と思いながら段ボールを持つ。

午後になって、ようやく機材の搬入が一段落した。悠は工場の裏口から外に出て、空を見上げた。広い空だった。前の工場では建物と電線に遮られていた空が、ここではずいぶんと広い。それだけは、なるほどと思った。

そのとき、視界の端に小さな人影が入ってきた。

五歳くらいの男の子が、工場の塀の前でくんくんと鼻を鳴らしていた。

「……何してんの」

悠が声をかけると、男の子はくるりと振り返ってにっこりした。無防備な笑顔だった。

「いいにおい」

試作で焼いたクロワッサンの匂いが、外まで漏れていたらしい。

「危ないから、あんまり近づかないほうがいいよ」
「なんで?」
「工場だから」
「こうじょうってなに?」

悠は返答に詰まった。五歳児に「工場」を説明したことがなかった。というか五歳児と話したことがほぼなかった。

「……パンを焼くところ」
「パン!」

男の子の目が輝いた。それはもう、ぱあっと、という感じで。悠は自分でも気づかないうちに、少し笑っていた。

*  *  *
男の子の名前は、こうたといった。

翌日も来た。その翌日も来た。三日目に、慌てた様子の女性が「すみません、うちの子がご迷惑を」と頭を下げにやってきた。工場の近所のアパートに越してきたばかりだという。野村千夏、三十二歳。シングルマザー。

「本当に申し訳なくて。こうた、ここに来るなって言ったでしょって言ったんですけど、お菓子のにおいがするって聞かなくて」
「別に迷惑じゃないっすよ」

悠がそう言うと、千夏は少し驚いたような顔をした。

「そうですか? よかった。あの、本当に来させないようにしますので」
「だから別にいいって言ってます」

言ってから、悠は自分でも少し驚いた。「別にいい」というのはいつものお茶を濁す返事だったが、今回は本当にそう思っていた。こうたが来ると、工場の前が少し明るくなる気がした。

その日の帰り際、試作で余ったスコーンを小さな袋に入れて、こうたに渡した。

「うまかったら教えて」

こうたは「うん!」と言って走って帰った。

*  *  *
田代正吉という老人と出会ったのは、着任から一週間後のことだった。

朝七時、工場の敷地の端を横切るように細い農道が走っていて、そこを杖をついた老人がつかつかと歩いてきた。

老人は悠を見ると立ち止まり、値踏みするような目を向けてから言った。

「ここ、昔は全部俺たちの田んぼだったんだぞ」

唐突だった。おはようございますもなく。

「……あ、そうっすか」
「そうっすかじゃない。昔から、稲を作っとったんだ」
「はあ」

老人はしばらく悠を眺めてから、また歩き出した。五歩ほど進んだところで振り返った。

「お前のとこのパン、においだけはいいな」

それだけ言って、今度こそ行ってしまった。悠はしばらく呆然と老人の背中を見送ってから、「においだけ、ってどういう意味だ」と思った。食べてもないくせに。

第二幕
別にいいっすけど、
── 距離が縮まる、すこしづつ ──
こうたが毎日来るようになった。

土日は判で押したように午後二時ごろに現れ、工場の塀の前でくんくんする。悠はそのうち、土日の試作のタイミングを午後二時に合わせるようになった。自分でもなぜそうするのか、よく分からなかった。

ある土曜日、こうたがいつものように来ると、悠は焼き立てのメロンパンを持って出てきた。

「今日はこれ」
「なにこれ?」
「メロンパンだよ。」
「メロン、すき」

こうたはその場で一口かじって、目を閉じた。五歳児が目を閉じてパンを食べる姿は、妙に様になっていた。

「……おいしい」

悠は何も言わなかったが、なんとなく、胸の辺りが温かくなった。工場で作るものは全部梱包されて出荷されていく。おいしいかどうか、誰かの顔は見えない。

千夏とも、少しずつ話すようになった。お互い、踏み込まない距離感が、どこかちょうどよかった。

ある夕方、千夏がぽつりと言った。

「ここに越してきてよかったって、こうたが言うんです」
「そうっすか」
「パンの工場の隣に住んでる、って幼稚園で自慢してるみたいで」

悠は少し笑った。

「パン工場の隣は自慢になるんすか」
「こうたには、なるみたいです」

千夏も笑った。お互い、それ以上は何も言わなかったが、悠はその会話を、帰り道なんとなく思い出した。

*  *  *
田代じいさんは毎朝来るようになった。悠が「おはようございます」と言うと、じいさんは無言でうなずく。それが挨拶の定型になった。

ある朝、じいさんが立ち止まって言った。

「昔はな、この辺に川の水を引いてきてたんだ」

悠は鍵を回しながら「へえ」と答えた。

「米が育つにはな、水と土と、手間暇がいる。そのどれが欠けても駄目なんだ」
「……パンも一緒っすよ」

じいさんが振り返った。初めて、少し興味深そうな顔をした。

「そうか」
「水と、材料と、温度と、時間と。どれかひとつ狂うと駄目になる」

じいさんはしばらく悠を見てから、また歩き出した。今度は振り返らなかったが、歩き方がほんの少しだけ、ゆっくりになったような気がした。

第三幕
手を挙げるか、挙げないか
── 不器用な葛藤──
市の職員がやってきたのは、五月の半ばだった。

松本ほのか、二十六歳。都市整備課の担当。名刺を差し出しながら「地域貢献活動のヒアリングにうかがいました」と言う、真面目そうな目をした女性だった。

悠は佐久間さんと一緒に応接スペースに通して、会社のパンフレットを出した。「地域に開かれた工場を目指します」という会社のコンセプトが書いてある。

ほのかはそれを読みながら、ふと顔を上げた。

「地域に開かれた工場、というのは具体的にはどんなことをお考えですか」

佐久間さんが悠の方を見た。悠は一瞬困ったが、「まあ言えることを言うか」と思って口を開いた。

「隣の子どもに、試作品たまに食べてもらってます」

ほのかが少し目を丸くした。

「それ、すごくいいと思います」
「いや、なんか気づいたらそうなってただけで」
「でも、それがそのまま『地域に開かれた』ということだと思いますよ」

悠はなんとなく居心地が悪くなった。自分がいいことをしているように言われるのが、得意じゃない。

帰り際、ほのかはパンフレットを鞄にしまいながら言った。

「実は、駅前の商業ゾーンで事業者の公募が始まるんです。焼き立てパンの直売所と、ちょっとしたカフェスペースみたいな形で、応募してみませんか」

悠は即座に答えた。

「自分には決める権限がないんで」

ほのかは「そうですよね」と笑って帰っていった。

*  *  *
でも、なぜか気になった。

駅前に出る、ということが、どういうことなのか。工場で作ったものを、トラックで出荷するだけではなく、この街で、この街の人たちに、手渡す。

こうたの顔が浮かんだ。目を閉じてメロンパンを食べる、あの顔が。

翌週、こうたが来たとき、悠はさりげなく聞いた。

「ここのメロンパン、どうだった? 幼稚園の子たち」
「みんなおいしいって! もっと食べたいって!」
「そうか」
「ねえ、ここのメロンパン、お店に売ってないの?」

悠は答えなかった。でもこうたの言葉が、頭の中でしばらく鳴り続けた。

夜、本社の上司に連絡を入れた。

「公募の件、少し考えさせてください」

電話口で上司が「……え、お前から言い出すの?」と絶句した。悠は「別にいいっすか」と聞いた。「いいに決まってんだろ」と言われた。

第四幕
開かれた庭へようこそ
── その夜、田代じいさんは農道で ──
プレゼン資料の作成は、思ったより難しかった。

会社のパンフレットをそのまま出すのは違う気がして、でも自分の言葉で書こうとすると、何を書けばいいのか分からなくなる。「地域に開かれた」「コミュニティとの共存」「職住近接の新たな形」—— どれもしっくりこない。

六月のある夜、悠は行き詰まって工場の外に出た。

農道の端に、人影があった。

田代じいさんだった。ステッキをついて、暗い更地の方をじっと見ている。

「……こんな時間にどうしたんすか」

じいさんはゆっくり振り返った。

「昔からの癖でな。田植えの季節になると、外に出たくなる」
「田植えはもうやってないんですよね」
「やってない。でも体が覚えてるんだろうな。この時期になると、むずむずする」

二人で並んで、工事中の街を見た。遠くにかわまちみなみ駅のホームの明かりが見える。クレーンが一本、夜空に黒い影を落としていた。

しばらく無言でいると、じいさんがぽつりと言った。

「土地ってのはな、誰かが使ってやらないと死ぬんだ」
「……死ぬ」
「田んぼもそうだ。水を張って、稲を植えて、手をかけてやらないと、ただの泥になる。でも誰かが使えば、また生きてくる」

悠は黙って聞いた。

「お前のパンも同じじゃないか。誰かに食わせてやらないと、ただのふくらし粉と小麦粉だろ」

悠は少し考えてから言った。

「それ、うまいこと言いますね」
「俺は昔からうまいことを言う」
「自分で言いますか、それ」

じいさんが「ふん」と笑った。悠も笑った。夜の更地に、二人分の笑い声がこぼれた。

*  *  *
翌朝、悠はプレゼン資料を書き直した。

タイトルは「この街の人たちと一緒に作る、小さな庭の小さなパン屋さん」

内容は単純だった。工場で焼いたパンを、駅前で売る。買った人が公園や調整池の広場に持って行って食べてもいい。こうたみたいな子どもが「おいしい」と言う顔を、この街のいろんな人に見てほしい。それだけ。

読み返してみると、なんとも素朴な内容だった。「職住近接」も「コミュニティ形成」も一言も書いていない。でも、これが自分の言葉だった。

*  *  *
公募の結果が出る前に、夏が来た。

公園の芝生がきれいに整備されて、開放されたという話を千夏から聞いた。悠が「行ってみますか」と言うと、千夏が「こうた、絶対行く、ってうるさいです」と笑った。

日曜の午後、四人で公園に行った。悠と千夏とこうたと、なぜか田代じいさん。工場で焼いたパンをかごに入れて持ってきた。レジャーシートを広げて、こうたが芝生を駆け回るのを眺めながら、クロワッサンとメロンパンを食べた。

じいさんがクロワッサンを一つつまんで、かじった。

「……においだけじゃないな」

悠は「最初からそう言ってましたけど」と思ったが、黙っておいた。

ほのかが少し遅れてやってきた。「公園の様子を見に来たんです」と言いながら、なぜかちゃっかりシートの端に座った。

「結果は未だですけど、頑張りましょう」
「別にいいっすよ、やれることやりましたから」

ほのかが「ちょっと、もう少し緊張してください」と言った。千夏が笑った。こうたが「メロンパン!」と叫びながら戻ってきて、手を伸ばした。じいさんが「走り回った後に食うとうまいだろう」と言った。

悠は芝生に手をついて、空を見上げた。

公募結果がどうなるかは、未だ分からない。でも今、この芝生の上に、自分のパンを食べている人たちがいる。

それで十分だ、と悠は思った。「別にいいっすよ」ではなく、本当に十分だと思った。

その違いに気づいたのは、自分でも少し後になってからのことだったが。

*  *  *
エピローグ

秋になって、公募の結果が出た。

悠はその結果を、工場の前でこうたに伝えた。こうたは「ふーん」と言って、「で、今日はなんのパン?」と聞いた。

悠は「ブリオッシュ」と答えた。

「ブリオッシュってなに?」
「フランスのパン。バターと卵でできてる」
「いいにおい!」

悠は笑って、工場に戻った。機械の前に立って、今日の仕込みを始める。段取りのどれかひとつが狂うと駄目になる。全部うまくいくと、誰かの「おいしい」になる。

それが、桐島悠の仕事だ。

どこも一緒だと思っていた場所が、いつのまにかどこよりも大事な場所になっていた。

それに気づいたとき、悠は「別にいいっすけど」と思わなくなった。

(了)

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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※本書に収録された作品は、ローカルコミュニティラジオ番組の取材をヒントに創作したフィクションです。登場する人物・団体の名称等はすべて架空のものであり、実在する個人・団体とは一切関係ありません。

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